手塚治虫先生と野火止緑道
野火止緑道のワンブロック隣に手塚プロダクションのスタジオがあります。
看板にもなっている「鉄腕アトム」は新座市の名誉市民で、JR新座駅のチャイムがそのテーマソングであることも有名です。
でも、何故手塚プロダクションのスタジオが野火止にあるのか、また手塚先生はご自分のペンネームに「虫」を付けるほどの昆虫マニアとしても有名ですが、それと野火止のスタジオには、なにか関係があったのか。など、バタフライソンスタッフが気になっている事を、スタジオが野火止に移転した当時の手塚先生をよく知る、手塚プロダクションの清水取締役にお聞きしました。(2024年1月10日)
なお、この日、筆者は生まれて初めてのインタビューということもあり大変緊張してしまい、お話を伺うだけで精一杯。写真撮影の許可もいただいて、どこを撮ろうかなどと考えていたのに、なんと撮影する事をすっかり忘れてしまいました!そのため写真は後日手塚プロダクションにご提供いただいたものを使用しています。
あかねこ:初めまして、本日は手塚先生と野火止緑道のかかわりについて、当時の先生を知る清水取締役からお話をお聞きできるという事で、大変お忙しいと伺っておりますが、お時間を割いてくださりありがとうございます。
清水取締役のプロフィールを拝見いたしますと、1981年に手塚プロに入社なさったそうですね。
清水取締役:そうですね、78年にバイトで先生と知り合って。81年卒業と同時に社員になって、89年に先生が亡くなるまで、先生と一緒に仕事をさせていただきました。
あかねこ:88年に野火止のスタジオが完成したそうですが、それ以前にも野火止でお仕事はなさっていたんでしょうか。
清水取締役:いや、88年に野火止に移ってからですね。
野火止で仕事をしたのは89年まで、ほんの1年ぐらいですね。88年の暮れに(入院先から)帰ってきて、翌年の2月に亡くなったので、本当にあそこで仕事をしたのは半年ぐらいのものだったんじゃないかな。
あかねこ:噂では自転車で東久留米から通っていらしたそうですが。
清水取締役:いやぁ、それは都市伝説じゃないかな。
手塚はもちろん自転車も乗れたと思いますが、専属の運転手さんもいたから。
あかねこ:88年というと。ご病気も悪くなってゆく中で、確かに自転車は無理そうですね。
あかねこ:ところで、この野火止の地を選ばれたというのは、自然が豊かだったから、と聞いていますが。
清水取締役:そうですね、今はもう周りに家がいっぱい建っていますが、あの当時はスタジオの前もずっと雑木林で、本当に自然が豊かだったんです。それがとても気に入って。手塚は宝塚で育っていますから、子供の頃と環境が似ていたんじゃないんですかね。
子供の頃は宝塚で、家に帰ってくると昆虫採集に出て、昆虫の標本などたくさん作っていましたし。お父さんがハイカラ人で写真を趣味にしていて、没になった写真原稿の裏側に昆虫図版っていって細かい、ものすごくリアルな絵を描いて自分で図鑑を作ったりして。ものすごく虫が好きで、だからペンネームにも治の後に虫を付けて。
そうやって自然の中で育っているわけですよ。そしてその宝塚の雑木林や原っぱが宇宙基地になったり、探査機地になったりすごく想像が膨らむ場所として、自然の中にいるという事が好きだった。
東久留米の家は手塚プロのもので、先生の自宅ではなかった。それで(別の場所に移る計画が出たときに)、自宅にしますか?スタジオにしますか?と相談したら、スタジオにしましょう、って言って。何件か見て回った中で、あそこの野火止が一番いいって言って。
建物はもう建っていたんですよ、前に工場だったので、絵を描くアニメーターとかアシスタントが入るにはちょうどいいっていう事もあってあそこに決めた。
あかねこ:やはり自然というのは大きなポイントだったんですね。
清水取締役:そうですね、だからといって自転車で来たり、あそこでチョウを捕ったり、といった時間はなかったと思います。
あかねこ:手塚プロの隣のブロックにある野火止緑道は、調べてみると市街地にしては驚くほど植物や昆虫の種類が多いので、やはり手塚先生、よくお気づきになったなと思っていたのですが。
清水取締役:うーん、きっと本能でわかったんでしょうね。まあ、本当は時間があったらそういうこともしたかったでしょうが、いかんせ毎日が締め切り状態でしたからね。
あかねこ:晩年といっても激務をなさっていたんですね!
清水取締役:一回(胃がんで胃を)切って(一回目の入院は88年の3月から5月)でももうだいぶ悪化していたので切ったところでバイパスぐらいしかできなくて。(その後10月に再入院12月に再手術)それまでは毎日がずーっと締め切り状態でしたので。
あかねこ:そうだったんですね。であればご病気と激務という中で、周辺の野火止の景色が先生の心を慰していたのかもしれない、と思いたいですね。今では様子はかなり変わってしまいましたが。
清水取締役:そうでしょうね、雑木林だったところが今は家がいっぱいですよね、それは仕方のないことだけど。
あかねこ:ところで(あかねこくらぶの名前の由来になっている)鉄腕アトムの「赤い猫」の話もそうですが、かなり早い時期から手塚先生が環境というものに敏感に意識を持っていらっしゃったという事には驚いたのですが。
清水取締役:丁度アトムの漫画を描き始めた50年代、アトムは漫画は51年、アニメは63年かな、は日本が高度成長期になってきていたから社会にひずみが出始めているっていうか、物質的な豊かさと同時に日本で公害も起きて来るんですよね。水俣病とか、川崎のスモッグとか。
やっぱり手塚にしてみれば、子供の時の雑木林の体験っていうのがずーっとあったんでしょうね。だから「自然に根付く生命の尊厳」っていうのは大事にしなくちゃいけないんだっていうことで、じゃあ自分にできる事は何か、といったらやはり漫画を描いて子供たちにそれを啓蒙してゆくことだろう、という事で早くからそういうメッセージを出していたんだと思います。
だけどその当時人々に余裕がないから、高度成長で便利な暮らしとかにばかり目が向いていて全体としては自然を顧みる、というのは難しかったんじゃないかな。
で、今みたいに猛暑とか、自然からのしっぺ返しを食らうようになってやっとその自然の大切さというのに気づいて、その時になって、あ、手塚治虫って昔からこう言ってたよねってっていう形になってきたのかな。社会が先生に追い付いてきたのかなと。
あかねこ:そうですね。「赤い猫」でも動物たちが人間に向かって牙をむく場面があって、それが「気候変動」とか「環境危機」と重なって見えて。人間の見たくない未来、こうなってほしくない未来まで結構シビアに描いていらっしゃる。
あ、アトムの漫画はこんなに重かったんだ、ってびっくりしました。
私はアニメではじめてアトムを見て、子供の頃は漫画は読んでいなかったので。
清水取締役:そうですね、アニメは1話完結でスポンサーもいて、みんな喜んでくれる、という形で作らなくちゃいけない。
清水取締役:ただ手塚は、「アニメのアトム」は失敗ですって、ずっと言っていましたよ。
やっぱり自分のメッセージが伝わっていないという事だと思います。
人間とロボットの両方の立場が分かって、その間で苦しんで、つらい思いもして、それでも前を向いて行こうっていうのが、10万馬力の正義の味方っていうところだけがスポットライトを浴びてしまって、そこら辺が失敗だった、と言わしめている原因かな、と思っています。
心を持っているっていうことが大事で。それも今少しづつ、生成AIやなんかの・・・
あかねこ:それも今になって改めて考えさせられるテーマですよね。
清水取締役:まあでも、やっぱりいつの時代も子供が伸び伸びと生きていけないと。子供が未来なんで。
そのためにはこういう(自然の豊かな)場所が必要なんですよ。想像力を発揮して、それが宇宙基地になったり、作戦基地になったり・・・
あかねこ:そうですね、でも最近はなかなか子供だけで外で遊ぶっていうのができなくなっていますけど。子供には窮屈な時代ですね。
そのためか虫に触れない子供もいるみたいです。 でも虫ってすごく身近にいるものですけれど、見ようと思わなければその面白さに気づかないですし。そういう意味ではバタフライソンが何かきっかけになってくれたらいいかなって思ってます。
清水取締役:手塚先生はオオムラサキが好きなんだよね。(生前の手塚先生は「オオムラサキを守る会」の理事で、そのマークのデザインもなさっていました)
あかねこ:ああ、残念ながらオオムラサキはいないんです。平林寺の方でも、もういなくなって。1960年代前半(戦後から高度経済成長期に入り野火止の環境が悪化した)以降確認されていないそうです。
でも希望は持っているんです。環境が回復すればいつか帰ってきてくれるんじゃないかと。
あかねこ:近隣の市にはオオムラサキを飼育している施設があるんですよ。大きなネットで囲んでその中で育てていますが、野火止とほぼ同じ環境でちゃんと育っているので。
清水取締役:じゃあオオムラサキが野火止に出てきたら、事件だね。
あかねこ:そうですね。確かにきれいですよね。
私は自然の中ではなく、そこで見ただけなのですが。
清水取締役:僕は手塚先生のマンガでしか見てないから実際は想像できないんですが、
あかねこ:そういえば手塚プロの作品の中に少年時代の手塚先生とオオムラサキが出て来るアニメがありましたよね。
清水取締役:うん・・・手塚はね晩年、大河ドラマのような、例えば「火の鳥」とか「陽だまりの樹」のような ああいうものだけ、つまり大人を対象に描いていればいいじゃないですか、って言われた時に、いえいえ、漫画っていうのは子供のためにあるんだ、と。子供マンガが描けなくなったら終わりですって言って、ブラックジャックとか、アトムキャットとか、子供マンガを描くことを基本にしていたんです。 それっていうのは、子供っていうのは未来人なんだと。未来人に地球をちゃんと残してあげるのが大人の仕事なんだ、という考え方を持っていましたので、自分でできる事って何かと言えばそれは漫画を通じて啓蒙していくっていう事。 で、やっと今、時代が手塚の考えに追い付いてきたんだと思います。
あかねこ: 最後にバタフライソンをやってみよう、という子供たちにメッセージがあればお願いします。
清水取締役:とにかく自然とかかわるっていう事は自分たちの想像力を養うという事。今なかなか、皆さんの親御さんもお勉強ができないと、って言って、塾とかそういう方向に向いているのだろうけれども、是非、自然のすばらしさを知っていただいて、それを未来永劫どうやったら残せるのかっていう事を考えていただいて、いい大人になってください。
あかねこ:今日はありがとうございました。
インタビューを終えて、こうしてまとめてみると、もっとこれも聞けばよかった、あれも聞けばよかったと思う事ばかりですが、それでも一番重要なこと、手塚先生の自然に対する思いとメッセージはしっかりとお聞きすることができました。
お話を伺って、手塚先生が自転車で通勤なさったり、緑道の昆虫を観察なさったり、という事はなかったという事ですが、がんと闘う中で激務もこなされていた晩年の手塚先生が、少年時代を過ごした宝塚の自然に似た野火止の風景をスタジオから眺めているとき、その心はたとえ一時でも、自由に風を切って走り、チョウを追いかけていたのはないかと思ったりします。
ところで話題に出てきた「オオムラサキ」が登場する手塚プロダクションのアニメに「昆蟲つれづれ草」があります。これは手塚先生が亡くなった後、先生の虫にまつわるエッセイを元に製作された作品だそうです。今まで気にせずにアニメだけ観ていたのですが、このインタビューの後よくよくクレジットタイトルを見ると、他ならぬ清水取締役が企画なさっていたのでした。その冒頭に、手塚少年がオオムラサキに出会い追いかけるシーンがあります。何のセリフもなく、ただ静かな音楽が流れる中、オオムラサキを見つめる手塚少年の視線に、手塚少年のチョウ、そして自然への憧憬が感じられる1シーンでした。
木漏れ日の注ぐ雑木林から陽光のみなぎる原っぱへの展開がこの空間に宇宙へと続く広がりを感じさせてくれます。この作品にも清水取締役のお話のにあった「自然に根付く生命の尊厳」が、アニメならではの美しい映像と音楽で表現されていたことに改めて感銘を受けました。
冒頭の部分は手塚プロダクションのホームページで公開されていますので、是非ご覧になってください。
最後にこの取材にご協力くださり、不慣れな私のインタビューにお付き合いくださった清水取締役、またこの場をセッティングしてくださった株式会社手塚プロダクションに心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。